【詩】音楽と悲しみは、紙一重。

昔からそうなんですけど、
音楽をすればするほど、悲しい気持ちになります。

「音楽でつながろう」
「音楽でハッピーになろう」

こういう考え方がどうも苦手で、
音楽は何かを成し遂げるための、
”道具”ではない、と思ってしまいます。

結果的にハッピーになるのなら、
それはそれで、いい話だなと思うんですけど。


そこに意図があるのかないのかで、
後々の取り扱いが変わってくるのは、
善と偽善、過失と故意みたいな話に似ています。

「やらない善よりやる偽善」

とは、よく言ったもので。

僕もどちらかと言えば、やる偽善派ですが、
かといってやるわけでもないのは、
街に捨てられたガムのようなもので。


意図が自然にまぎれてしまうのは面白いですが、
わざと含ませすぎてしまうというのは、
どうも受け入れることが出来ません。

もっと、本質的なものだと思います。


そう、曲でもそれは同じことで、
過去に書いた歌詞を読み返すと、
新しい意図を見出すことがあります。

ふっと表れるからこそ、
より深く、本当のことのような…。


けど、それが本質的なものだからこそ、
えぐるととても痛かったりします。

とても痛かったりします。

その痛みが、生きている実感なのかと思うと、
それも少し違う気もしますけれども。


人間、誰も自分が生きているなんて、
自信を持って証明が出来ません。

それは前提がないからですが、
かといってそこに触れてしまえば、
不安定な自分に耐えられません。

だから触れません。


そうした欺瞞に立ち向かっていくのが、
生きているということであって。

たまたま音楽はそういう部分につながっていて、
それで、たまたま、悲しみまで出てきて。


不思議なことに、現実に生きていくことと、
欺瞞に立ち向かうことは、まったく逆の極です。

諦めてしまった方が、現実に得なのですけど、
それを許せる自分と、許せない自分がいるわけです。


欺瞞というのは明らかに強大な存在なので、
現実の部分でも強大に諦めなければならない。

そう、バランスを取って生きていくのが、
やじろべえのようで、面白いのかもしれません。

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