LR/sounds.Artででででででででです。
ここ最近の日記的な話なんですが、
肝臓がぶっこわれました。
いや別に病院に行って診断されたとかではないんですけど、ここ1ヶ月アル中のように飲みまくっていたら、
・みぞおちが痛い
・顔が青白い
・吐き気
・歩くのがだるい
などの症状が先週の木曜日(4日前ぐらい)から出てきちゃって、いい加減やべーとなり、しばらく禁酒することにしました。
もともと自分のお酒の許容量ってこれぐらいだなーって分かってるんですが、その許容量を大きく超える量を毎日のように明け方まで飲んでたんです。
それで上記の症状が出て、4日間かなり睡眠し続けて、やっとマシになってきました。
みぞおちの不快感が残っててまだ全然本調子じゃないけれど、1ヶ月ぐらいしっかり休めば、マシになってくるんじゃないかなあと思います。
それで、僕は今
うつ病と診断されてる
のですが、酒に溺れている期間&うつ病でここしばらくは本当に何も出来なくて。
寝ている時以外はダラダラしたりSNSしたり動画見たり自省したりしてました。
SNSは、
・病み垢ツイッター(別垢)
・集団トーク出来る別のSNS
の2つをダラダラやってたんですが、ちょっと興味深いことが起こっていて。
プチバズしたりファンが出来始めた
んです。
病み垢は「死にたい死にたい」とか「毒親の話」とか「自殺の話」とかをしてたんですけど、やっぱり同じ『死にたい』で共感しやすいのかRTやいいねが集まってきてて。
集団トークSNSの方でもうつ病は隠してないんですけど「声が落ち着く、癒やされる」とか「ツッコミが秀逸」とかで「ファンです」と言われたり。
今までは主に音楽を介してみんなと繋がっていたんですが、僕は音楽が結構ひねくれていたりキツかったりするので、そういう共感バズとか声トークだけの繋がりとはほぼ無縁だったんです。
でも病み垢も集団トークSNSも、作品ではなく完全に僕の素(人当たりやカウンセラー感)が出て、そういう結果になっているみたいで。
なんかそういう状況って「素直に嬉しいな」とか「満たされるな」って感じたんです。
そういう体験をして思うのが、
「僕は本当は、愛や承認が欲しいのではないか」
ということです。
もっと言えば、「そういった愛や承認は、僕が望む音楽や芸術や真理では得られないのではないか」ということです。
いやもちろん、誰だって愛や承認がほしいと言うか、それはマズローの初期段階で当たり前の話なんです。
もともと僕も「音楽に救われたから音楽をやっている」という面があって、救われたというのは、音楽が唯一の居場所(=愛や承認をくれる場所)だったから。
でも、
・10年以上音楽をやって得た、ひとつひとつは大きいけど極少数の愛や承認
・1ヶ月間のSNSで得た、ひとつひとつは小さいけど多数の愛や承認
を考えると、「後者を10年やったら一体どうなるんだろう」とか思ってしまうわけです。つまりは、僕の人間的な素を出しているだけで大多数の人に大きく愛や承認をしてもらえるのなら……
それだけをやっていればいい、もしくはそれを中心に据えればいいのではないか、ということ。
作品づくりではなく、別のことを主体にして生きて、その間で作りたい時だけ作っていればいいんじゃないかとか思ってしまったんですね。
もともと疑問はあった
んです。
今僕は(うつ病とは言え)24時間音楽できる環境がある、なのに24時間取り組めない。それはなぜ?と。
本当にやりたいわけではないのか?本当に望んでいるものじゃないのか?
「いや、そうじゃないはずだ」というのはあるんですけど、もしかしたらもっと深奥に、本当に求めているものがあるんじゃないのかなとか、そういう疑問がありました。
そしてその答えが『愛と承認』で、その『愛と承認』への最短距離が、音楽ではなく『僕の素を出すこと』なのだとしたら、そっちに注力した方が結果的に(音楽的な意味でも)良い方向に進むんじゃないかなと思ったりするんです。
もちろんこれは、音楽や詩や作品作りをやめるという話ではありません。
ただ正直なところ
未だにはっきりした答えは出ていない
状態で、もうずーっと考え続けているんですけど、なかなか明確な形にならないんです。
でも現実問題として24時間音楽出来てない状況なので、きっと無意識が求めている、別に注力すべき場所があるんだろうなあと思ったりもします。
今はうつ病や体調不良ということもあり集中的に考えられない時もありますが、療養第一でゆっくり考えながら、自分なりの答えを出していけたらと思っています。
LR/sounds.Artでした、おやすみなさい。