【詩】絶情

 

「愛してるんでしょ!だったら、早く刺して。」

 

彼女は、目を腫らして、そう言った。

僕は、虚ろな眼で、首をかしげた。

 

どうして、ここにいるんだ。

 

一、凍傷

なぜ、そんなことを、言うのか。

僕は、彼女のことを、
一度だって、愛したことがないし、
それを、表現したこともない。

突然、彼女はやってきて、
ナイフを持って、叫んだ。

「殺して!」…と。

ある時は、優しく声をかけ、
ある時は、引きつった笑いを浮かべ、
それでも、どこか、魅力的で。

 

倒錯している。
彼女は、倒錯している。

 

少なくとも、僕にはそう見えたし、
それは、とても心に響いた。

彼女はとても立体的で、
抽象的な絵画のようで、
入り込める場所と、
入り込めない場所。
そんなところに入り浸る、
彼女といることは、
快感のようなものだった。

 

「刺して!」と、いまだ、うるさいものだから、
どうしたの、と聞いてみれば、「愛してるの。」と、優しく微笑む。

まだ、目の腫れは引いてないし、それをどこで作ってきたのか、僕にはよく、わからない。

 

けれども、彼女は幸せそうだ。

ニタッと笑ったかと思えば、
突如として、形相が変わったり、
そんな光景を見ていると、不思議と、満たされる気がする。

 

そうか、と僕はうなずき、ナイフを少し、にぎって、
血を見せて、彼女を安心させる。

あたたかいものが、流れていく。

そうだよ、これが僕たちなんだよ、と、語りかけてみれば、

「あったかいね!」

と、高い声で教えてくれた。
そう、僕たちは、
あたたかいのだ。

うん。

そんなことも忘れて、
生きているんだろうか。

僕は。

僕は、

僕は…。

 

嫌悪がうずまき、景色を変える。
凍傷のような世界。

つめたい、つめたい、つめたい。

倒錯したアイデンティティ。
歪んで笑うニューロン。

分裂してゆく。

わからない、わからない、
わからない。

どうして、ここにいるんだ?
「それはね」

「アタシ、愛してるから」

 

ふうん、そういうものか。

 

なまぬるい温もりに、
浸り続ける、彼女と僕。

いじわるそうに、笑うから、
いじわるそうに、嗤ってやった。

 

幸せ…なんだろう。

 

ニ、果実

そもそも、僕は彼女を知らない。

どこで生まれて、どんな奴で、
何が、好きなのかとか。

聞いてみれば、必ず、こう答える。

「あなたを愛してる」

たった、それだけだ。
出会って、どれぐらい経ったのか?

それを記憶しているほど、
僕にも余裕はなかったし、
彼女も、物覚えは良くはない。

ナイフのことを、もう忘れているし、
どこにやったかも、知らない。

世界のうつり方が、違うからだ。

僕の眼が、凍傷であるなら、
彼女の目は、真っ赤な血。

それも、鮮明というよりは、
ちょっと黒ずんだ感じで、
実に濃密な、真っ赤な血。
あまりの命の濃さに、
圧倒され、魅了され、
僕は彼女を手に入れた。

愛情なんかじゃない。
愛情なんかわからない。
ただ、魅力的で、美しくて、だから、それを手に入れた。

命の濃さ。
絶望的な、命の濃さ。

どこまでも、それを求めていて、だから、それを手に入れた。

彼女は、どう思っていた?
聞いてみれば、決まってこう言う。

「愛してる。」

抽象的な出会いに、僕はとても、
感謝をしたし、神様のようにも思う。

そう、降ってきたんだ。神様のように、降りてきた。

濃い命、圧倒的な命。
病棟で、浮かぶ果実。

食べたい、と思った。そして、それを許してくれる。
でも、僕は、食べなかった。真っ赤な血が、怖かったのだ。

僕の指先を見ればわかる。
こんなにも青紫で、まるで存在してないみたい。

ここにあの血が混ざれば、命が手に入るのか?
いいや、押し潰される。押し潰されてしまう。

濃い命を、僕は触れない。
だから、僕は、食べなかった。

でも。

彼女は、食べてほしかった。きっと、それを望んでた。

そうじゃなきゃ、こんなにも、
愛してくれるはずがないんだ。

「愛してる。」

 

「愛してる!」

 

「愛してる。」

 

「愛してる」

 

「愛してる。」
ほんとうに?

それを僕は、確かめようが無い。
愛が、よくわからないのだから。

でも、一つだけ知ってるのは、
彼女が、神様だってことだ。

 

降ってきた、神様。
堕天使のような、神様。

抽象画をビリビリに破いて、
バロック音楽にしたような、
神様のような、真っ赤な血。

 

ほしい。
ほしい。

 

手に入れたいと思う。
はじめて、そう思った。

出会いは、病室を、
引き裂いていく。

 

三、転落

心地よい。あまりに、気持ちがいいと感じる。

そうだよ、そうだ、そこ。
倒錯したバロック音楽の、
見るからに歪んだ鏡。

おかしいな、と思えば彼女は、ニタッと笑って、「大好きだよ」と言ったのだけど。

近頃は、「大好きだよ」の後に必ず、「刺して!」と言うようになった。

どうしてかはわからない。
望んでいるようにも見えないし、僕もそれを、望んでいるわけじゃない。

ただ、愛してほしいの?と聞けば、また、ニタッと笑って、黙りこくる。

キュッと結んだ口と、あちらを見ている目と、ほんとうに美しく感じて、刺す?と聞いてみれば、突然、

「アア!」

と、声にならぬ声をあげ、彼女は叫び出してしまった。

喜んでいるのだろうか、
悲しんでいるのだろうか。

理解が追いつかない自分、
それにまた嫌気が差して、
その日は、すぐに眠った。

夢は、不思議な場所だった。

ぬめった何かが、靴底に。なまぬるい風が、頬をなで。

気持ちいいけど、気持ち悪い。理想とは、程遠い空間。
怖かった。辛かった。

岩を砕くような雷。
置いてけぼりの僕。

助けて、なんて言葉は知らなくて、ただ泣いて、楽しそうな両親を見守る。
待っててね、と言われたところで、待つことなんて出来ないだろう。

岩を砕くような雷。
置いてけぼりの君。
怖かった。辛かった。
転がってゆく僕は、追いつけないのに、追いつこうとした。先へ進む彼女たち。
助けて、なんて言葉は知らなくて、ただ泣いて、楽しそうな両親を恨む。
そこで、気づくことができた。

『これが、僕の魂なんだ』

そう、この時、どこかに、
何か、置いてきてしまった。
もう、見つからない何かを。
四、道化

「愛してるよ!」

叫びとゆする手で、目がまた覚める。どうやら、こんな僕を、ずっと見ていてくれたらしい…恨めしそうに。

愛されているのか、と感じ、僕は、会釈を返した。また、ニタッっと笑う。

こんな応酬を、数回やって、二人で並んで、寝転がった。

「どうして、ここにいるんだ?」

彼女は、僕の真似をする。ほんとうだ。どうして、ここにいるんだ。

なぜ、ここにいるのか、
よくわからないもんだから、
一度、強く、頭を叩く。
しばらく、時間が経っただろうか。どうやら、僕が起きなかったのは、間違いないらしいということを感じる。

涙を流している人たちは、どこから来たんだろうと、思い出そうとしても、誰だかもわからないし、別にわからないでいいと思う。

思い出すと、たぶん、よくないということだけはわかる。「何も知らないことが、幸せである場合は多々ある」と、父は言っていた。その通り。

今がそういう状況だから黙っていることにした僕は、はじめて、父の言葉が役に立ったことに気づく。

これは、愛情の一欠けらなんだろうか。認めたくはないけれど。うん、認めない。

それでも、泣き続ける彼らの様子を見て、思わず、声をかけてしまった。「もう、泣く必要なんかないよ」って感じにだ。

それでも聞こえていないのか、まだ、泣くことをやめないものだから、今度は、「泣くな!」と強く言うのだけど、どうやら、意味はないのだと悟る。

これも愛情の一欠けら…そんなはずはないんだ。泣くことが愛情だなんて、意味がわからない。笑うことが愛情だということも、よくはわからない。

そんなことを考える僕は、本当に倒錯しているな、と感じて、ニタっと笑う。

実に面白い光景だ。

僕はダメなのだ。このまま寝ているのだ。こうしていることが、これ以上ない幸せなのだ。

そう気づくことで、自分を納得させる様子を、さらに空から見ている自分、面白い、実に面白い光景だと、皮肉めいた口調で包み込む空気、どうやら、僕は、ダメなのだ。

「泣くな!」といまだに言い続けて、また、泣くことをやめる。これも愛情の一欠けら。ありがとうと言ってみる。

我ながら、変な人生だったな。

思えば、何をしたのかもよくわからないし、それでも、何かを遺した気もして、だからって、それが良いものばかりじゃないのだ。
人間生きてれば、良いものも悪いものもある、あるのだけど、それでも、少しぐらいは、美しく生きてみたい、それが人間なものだから、僕もきっと、人間だったということだろう。

そのことには強く安堵を覚えるし、命を持つことの輝きを感じたし、だから、何をしたのか、よくわからないと感じる。
どちらなんだ?僕は誰なんだろう。たくさんのアイデンティティ、倒錯したアイデンティティ、それこそが僕自身であると思うし、彼女自身でもあったのだ。

歪んで笑うニューロン。こんなものを引き継いでしまったものだから、幸せな人生を送り、幸せな生活を過ごし、幸せに眠り続ける。

僕の眼は、純粋か?彼女の目は、愛らしいか?輝きは時が吸い取り続け、いつか色あせてしまっただろう。そんなところも人間らしく、だから、愛してると彼女は言い続ける。

そう、そういうことだったのかと気づく。もっと、応えてやるべきだったんじゃないのか。

この時、はじめて、後悔というものが産まれたように思う。産物。腹を痛めた産物。まさしく濃い命のようであるし、真っ赤な命のようである。

腫らした目を持つそれは、あっという間に空間を支配して、命そのものになってしまった。そこに僕などはいなくて、ただ、輝かしい生命があるだけだ。

一つの腫らした目。その美しさに僕は魅了され、取り込まれることを許した。それこそが、欲しかったものだった。

倒錯しないアイデンティティ、一つの濃い命。これだけでいいのだから、生きるとは、たやすいものだ。

そのまま、過去へ遡れ。

過去は本当に良いところだと、おかしな道化師が教えてくれる。そんなことがあるものかと、僕は反論をする。

当たり前だ。過去にとらわれていて、良いことなど何もないはずだ。前に進まなければならない。

僕たちは、前に進まなければならない。そうだろう?と聞き返すと、彼は言うのだ。
「それは独りよがりだ。過去を大事に思う人間は、蟻のようにいる。それが正しい姿だからだ。

とらわれ、苦しみ、強くなり、笑い、憎み、ニタッと笑う。過去は力だ。過去は毒だ。過去は希望だ。過去は未来だ。過去こそが、私たちの全てだ。それを否定する君はなんなのだ。

君こそが気味の悪い道化ではないのか。何をそんなに考える。何のために証明をする。とらわれ続けているのは、君のほうではないか。

現在に囚われる、醜い奴を知っているか。君だよ。君の命そのものだ。だから教えてあげよう。脱出するには、真っ赤な濃い命を手に入れるしかない。

私は君を憐れんでいるよ。そんな姿になってしまったことをね。

本当は、人など助けたくないんだ。別にどうだっていい。人を皮肉めいた笑顔にさせる、そんな仕事なんてどうだっていい。

私は道化師だが、ただの悪魔のようなものだから。だから、君に忠告する。
今すぐ、真っ赤な血を手に入れろ。チャンスは一度しかない。今、目覚めたその時しかない。

濃い命の輝き。過去にとらわれる美しい世界。その色こそが、彼女の血そのものだとは思わないか。

だから私は用意した。生命そのものを。そうだ、逃げ場を用意したんだよ。
彼女という逃げ場そのものは、私の一部であるから、君は、現在を脱出することができるだろう。美しき過去。実に、実に美しい世界なのだよ。本当に大事なのは何かを、おそらく知ることができるだろう。

見えるはずだ。わかるはずだ。実感をすることができる。忘れていたものを。

お前はいつ、色を失った。お前の眼から目を奪った奴は誰だ。どこのどいつだ。それを与えてやると言ってるんだ。だから従え。従え。従え。絶対と言っているのだ。従え。従え。」

おかしな道化師は、しまいに従えとしか言わなくなった。それも数十回、いやそれ以上を言い続ける。

もういいよ、わかったよと返しても、まだいじめることに飽き足らないのか、彼女はいつまでもそれを言い続けるのだ。

しまいにはそれが心地よくなってしまって、また僕は、別な場所へと飛んでいったような気がする。これが過去なのか?現在から脱出できたのか。

いいや、道化の言うことが正しければ、まだ真っ赤な濃い血を、僕は手に入れてないはずなのだ。

だったら、、ここはまだ現在に囚われた、たくさんの凍傷たちが、徘徊しつづけているだけの街。

美しいとか、輝かしいとか、そんな言葉すら、忘れてしまう。
ただ羨ましいだけの存在が、ぐるぐると、同じ場所を廻るのだ。

とおりゃんせ、と歌ってみる。ぐるぐると回りながら。とおりゃんせ。ちょっと通してよ、と押され、振り向くと、突如、

「愛してる。」

と聞こえてくる。

ああ、彼女も、現在を知っていたらしい。

でも、おかしくはないか?なぜ現在を知っているのだ。真っ赤な濃い血。道化師は、それが必要だと言った。命の輝き、統一されたアイデンティティ、それこそが、真っ赤な濃い血であり、彼女そのものであるのに、彼女は、現在を知っている。なぜ現在を知っているのか。真っ赤な濃い血ではないのか。そうはいっても、彼女は、真っ赤な濃い血だ。真っ赤な濃い血そのものだ。

これほどまでに立体的で、抽象的で、倒錯したアイデンティティ、統一されたアイデンティティ、歪んでしまった神経細胞、分裂しているからこそ感じられる、真っ赤な濃い血そのものの、愛情。

欲しい、ほしいと思わせるのだ。

とおりゃんせ。初めて、彼女の手を取ったのかもしれない。とおりゃんせ、は、かごめかごめにかわって、どうやら、少しだけ、生温い魂の一部に触れて、トーンが赤くなった。

僕の眼は、どうやら少し腫れてきたんだろう。
道化師は、矛盾していたのかもしれないが、正しいことは確かなようだった。それほど、ここはあたたかい。まだぜんぜん足りないけれど、あたたかいということだけは、すごく良くわかる。これだけの倒錯を産み出してくれた彼女に、感謝をしよう。

しばらく、時間が経っただろうか。

どうやら、僕が起きなかったのは、間違いないらしいということを感じる。

涙を流している人たちは、どこから来たんだろうと、思い出そうとしても、誰だかもわからないし、別にわからないでいいと思う。

思い出すと、たぶん、よくないということだけはわかる。

「何も知らないことが、幸せである場合は多々ある」

と、父は言っていた。その通りだ。今がそういう状況だから黙っていることにした僕は、はじめて、父の言葉が役に立ったことに気づく。

これは、愛情の一欠けらなんだろうか。認めたくはないけれど。うん、認めない。

それでも、泣き続ける彼らの様子を見て、思わず、声をかけてしまった。「もう、泣く必要なんかないよ」って感じにだ。

それでも聞こえていないのか、まだ、泣くことをやめないものだから、今度は、「泣くな!」と強く言うのだけど、どうやら、意味はないのだと悟る。

これも愛情の一欠けら…そんなはずはないんだ。

泣くことが愛情だなんて、意味がわからない。

笑うことが愛情だということも、よくはわからない。

そんなことを考える僕は、本当に倒錯しているな、と感じて、ニタっと笑った。

いつまで寝ているんだろうか。

とっくに数十年は経ったし、それでも僕たちは、少年少女のままだ。

誰かに助けてほしいわけでもなく、かといって生きることを望んでいるわけでもなく、宙ぶらりん。

言うまでもなく、宙ぶらりん。それでいいのか、という義務感なんかは程遠く、いつまでもどこまでも、流されていくような気がする。

おいで、おいで。こちらにおいで。

道化師のような彼女は、あたたかい腕を広げて、僕を迎え入れてくれるだろう。いつもどおり、優しくて恐ろしい声をかけて…。
僕を包み込んでくれる。

知っている、知っているよ。彼女は、僕にとっての魂なんだ。本当の魂なんだ。

それなのに、僕は、応えてやることができない。無碍にしてしまう僕を許してくれ。

「刺して!」

「刺して!!」
いつまで、

それを言っているの。僕は君を刺すことなんて、出来ないよ。こんなに、愛してくれたんじゃないか。

よくわからないけれど、愛してくれたんじゃないか。本当に愛しているのなら、なぜそんなことを言うの?なぜ刺してなどというの?

分かっていないのは君なんだと、主張しても、届かないんだろう。

それでも、言い続けたい。問い続けたい。なぜ?なぜ、なぜと、ずっと。

愛情なんてのはよくわからないけれど、君にいなくなってほしくないって気持ちはわかるんだ。

どれだけ僕が虚ろに首をかしげていて、どれだけ生命とか、関係とか、法則とか、そういうのがよくわかんなくても、君にいなくなってほしくないってことだけは、わかるんだ。

刺せって?そんなこと、出来るわけがないだろう。

だって、君は僕だし、僕は君なんだ。
分かってくれないのかと言っても、伝わらない、こんな悲しいことがあるか。

意味なんてない、たとえそうだったとしても、その笑顔だけで、僕は意味を悟ることができた。直接はわからない意味を、悟ることができた。
それだけで十分だったから、世界を理解することはやめたんだ。
そう、そうなんだよ。もう、終わりだと思ってた。

けれどね、ほら、それは違ったんだよ。違った。もう少しだけ、僕たちは生きることができるし、もう少しだけ、外を見ることが出来る。

過去にとらわれた、美しい世界。それは、現在そのものだったもの。

まるで廃墟のような、綺麗な構造物なんだ。

真っ赤な濃い命の、生きた証は、僕たちが昔、創り上げたものなんだよ。

そんなことも忘れてしまったから、僕は悲しんでいたし、彼女は笑っていた。

そう…。

だから、本当に、本当に、安心することができて、なぜ存在するかわからないこの空間が、どこまでも心地よくて、あったかい。いつまでもいたいと思うし、結局、離れることなんて、できない。

倒錯したアイデンティティ。

統一されるアイデンティティ。

 

こんなこと、望んでもいなかったけれど、与えられた道化の魂のように、奇妙でねじれた団子のようなものでもない。そう、それは、君そのものだ。パカッと割ることで、温もりを手に入れる。

「ダイジョーブ!」

元気よく、君はいってくれたね。

そう、彼女は、まるでその時だけは、憧れの存在ではなく、欲求の対象ではなく、そういうものから外れた、生臭くないものだった。

血でもないし、命でもない。もっと崇高で、惹かれてしまう何か。魅了されるものではなく、欲しいと思うものでもない。だからこそ美しく、直接、心に入り込んでくる。

大丈夫、
本当に大丈夫なんだろうか。

 

意味なんてないんだろう。そうだとしても、信じてみたいと思うし、それだけの価値があるように思える。ここまでの幸せは僕は見たことがなく、感じたこともなく、気づいたこともなく、触ったこともなく、包まれたこともなく、くっついたこともなく、抱きしめたこともなく、キスしたこともなく、頭を撫でたこともない、倒錯した幸せのように、感じてしまった。
それでも、相変わらず、信じてしまいたいと思って、ちょっと、受け入れてみることにしたよ。どう思われようと、別にいいんだからさ。

どこかで、自戒せよ、という声が聞こえて、そこで僕は、一度、眼を開けたらしい。虚ろな眼を見た老夫婦は、こう言った。

「そろそろか。」
虚ろな眼、と言ったが、老夫婦は、それに負けない、虚空を見つめた眼で言ったのだ。冷たいと思う。あまりに見ていたくないものだから、僕は眼を、閉じてしまったのだ。

道化師は、胸を切り開いて、こう言った。

「お前の眼が悪い」

どういうことか、と聞けば、

「お前が冷たいから、人は冷たい」

と言ってくる。これには僕も憤慨したものだから、思わず辞書で道化を殴り、どのように倒れていくかを観察した。

道化は倒れなかった。

まだまだ力が足りないらしい。もう一度殴る。まだ倒れない。もう一度殴る。倒れない。殴る。倒れない。殴る。倒れない。

いつまでやってもそれは同じだった。そんなもので彼女は、倒れようとしない。

それが幸せだと知っているからだ。

過去の道化は倒錯している。現在の道化も倒錯している。しかし、未来に道化はいるはずがなく、彼女は本当に、僕が求めた彼女だったのだろうかと、悩んでしまったので、僕は僕を、辞書で殴ってみたが、あてもなく崩れおちてしまい、このザマだ。

結局、こういうことだ。弱いんだろう。あまりに弱い。
泣き崩れた僕を見て、老夫婦は、優しく頭を撫でる…冷たい手で!冷たい手。冷たい手?

いいや、そうは見えないのに、冷たく感じてしまう。

結局、道化師の言うことが正しかったのだと気づく。そう、ここだ。ニタッと笑って、満足そうに、彼女は僕を見つめる。本当に嬉しそう。
だから、僕は泣くのをやめた。彼女の幸せは、僕の幸せなのだから。泣いている場合じゃない。彼女が笑っているんだ。だから、泣いている場合じゃない。

笑った彼女はどこまでも美しく、帰ってきた!と喜んだ僕は、虚ろな眼をいったん閉じて、パーティの準備をした。

こんなにも嬉しいことがあるものか。彼女が笑ったんだ。満足そうに。

何だって用意しよう。幸せだって、苦しみだって、憎しみだって、笑顔だって、あまりに楽しい現在だって、全てを用意しよう。今日はお祝いだ。全てを、用意しよう。

君のために。
はしゃいではしゃいで、そのまま壁にぶつかって、僕も君も、倒れてしまった。頭に流れた血の色は、二人とも、赤かっただろうか?同じように、濃かっただろうか。

道化師は、心から嬉しそうに、こう言った。

 

「アイシテル。」

僕はそれを聞いて、あまりに嬉しくって、手にナイフを持ったのだ。

 

五、倒錯

本当に、これで良かったのだろうか。嬉しいから、僕はナイフを持って、その場に立ち尽くした。彼女の望みは、まだ叶っていないけれど、それでも、今すぐ訪れる夢のような瞬間に、その腫れた目はますます腫れ上がり、期待に胸を膨らませている様子が、見て取れる。
ああ、もうすぐ解放されるんだ、という気持ち。それは、僕が求めていたであろう気持ち。

彼女が代わりに叶えてくれるのなら、僕は、それでもいいな、と思った。けれども、本当に、これで良いのだろうか。まだ完全には信じることができなかった僕の様子を見て、彼女の様子は見る見る変っていった。
「さして」「さして」

ニコニコしながら囁く彼女だけれど、今回は笑ってはいない。物すごい、力を感じる目。

ここまで、僕が何かを感じることなど、あったのだろうかと、道化の大好きな過去を見返しても、何も見つからないようだった。

途端に、恐怖に襲われる。

人生って、何だったんだろう。どうして、ここにいるんだ?なぜ、そんなことを、言うのか。

僕は、彼女のことを、

一度だって、愛したことがないし、

それを、表現したこともない。
そう、そうだったはずなのに、僕はここまで、彼女を愛してしまって、今、これほどまでに、彼女のことを求め続けている。

倒錯したアイデンティティ。引き継がれた歪み。

もし、彼女がそれを修正してくれるのだったら、僕は何だってしよう。

揺らいだ心は美しい。壊れそうな心は美しい。

そう思うことで、僕は自分自身を保ってきて、だからこそ、老夫婦に、頭を撫でられたのだ。

だからこそ、道化と出会うことだって出来たのだ。

これは、何かを遺したということではないのか。
突如として湧いてきた自信、それはどこまでも僕を高揚させた。

これまで味わったことのない、突き抜けるような快感。そうだ、これだ、求めていたものはこれなんだと、あのころ味わった、本当の「彼女」を思い出したような、嬉々とした目で、僕は自分自身の手を見返す。ナイフだ。ナイフを握っている。
これから、僕はこれでなにをしようというのだ。自分で用意したわけではない。自分の意思であるはずもない。
僕は、なぜ、この場所でナイフを握っているんだ?

そう感じてしまっては仕方がないと、また道化はニタッと笑う。

「ほら、こう。」

優しく僕の手を握った彼女は、驚くほど熱かった。あまりに熱すぎて、手を離そうとしても、それを許してはくれなかったから、僕は、その場で、泣くことにした。たくさん泣いて、泣いて、泣き崩れて、なんで、何で、なんで!?と、たくさんの涙を流し、場を冷やそうとしたけれど、それは無意味で、だから、また泣いた。

毎晩、毎晩、握りつづける、熱い手を何とかしてやろうと、泣いて、泣いて、泣き崩れて、泣けなくなった時には、彼女は、隣に座っていた。やせこけた頬を、僕にすりつけて、慰めるように、隣に座っていた。

僕は、なぜ、泣いていたんだろう、と、あらためて、地面を見据えた。

彼女は、こんなにも、優しかったのだ。こうして、手をはねのけようとした僕の隣に座り、心配そうに、顔をのぞき込んでいる。

ほら、ここだよ、とキスをして、求めるものを差し出してくれる。どこまでも心配性で、どこまでも愛してくれて、どこまでも僕のことに付き合ってくれて、本当に、優しかったのだ。
手を何度はねのけても、はねのけられるということさえ、スキンシップのように感じ、嬉しそうに舌を巻いて、耳を舐めてくる。

どこまでも、いつまでも。

優しかった彼女を、僕はもう一度見つめ返して、愛情って、なんだろう?と、聞いてみた。

「こう。」

と、手を握る。今度は、熱くなんかなかった。心地よいぬくもり。きっと、こういうことなんだと、泣き腫らした目で、互いに視線を合わせず、僕たちは座っている。
安心するということ。慰めあうということ。似ているようで、何だか違うのかな、と、初めて気づいたような気がして、少し、くすぐったかった。知っているよ。これが愛情なんでしょう。そう聞いても、彼女は返してはくれない。だって、わかりきっているんだもの。何度も、愛してる、と言い続けた彼女のことだ。もう、何も言うことはないんだろう。

その様子を見て、僕は、本当に嬉しかった。ありがとう、という言葉は、彼女には伝わらない。
それでも、感謝をしていたし、何かしら、お礼をしてあげなきゃ、と考えていた。いったい、何をしてあげられる?指輪?ケーキ?それとも、大好きな辞書をお見舞いしてやろうか。そんないたずらまで、思いついてしまったものだから、これは駄目だな、と思って、また考え直すことにした。うーん、何がいいかな。似合う眼鏡がいいかな。
本当に目が素敵だから。それとも、似合う帽子がいいかな。それを本当に好きそうだから。うーん。うーん。

挙動不審になってしまった僕を見て、彼女は、こうつぶやいた。

 

「コレ」

 

ああ、それか。

そうか、そうか。

 

すっかり忘れていたが、彼女は倒錯していた。いや、倒錯していたのは、僕の方だったのかもしれない。もう、そんなことはどうでも良かった。それほどまでに、僕は倒錯していた。歪んだアイデンティティ。
ありがとう、という言葉の隙間など、みじんもない、神経伝達回路。

そうなんだよね、そう出来てしまったから、仕方ないんだよね。そう言って彼女のほうに顔を向けると、いつもどおり、「ニタッ」と笑った。これだよ、これ。これを待ってたんだと、嬉々として、僕は喋りだした。

「ありがとう」

「愛情って、おかしなものだったけど」

「とても濃くて、あたたかくて」

「だから、嬉しくて、喋りかけてるよ」

「時おり、あまりに頭がいたくなって」
「思わず、叫んでしまったりもしたけど」

「本当に、美しいなって、感じたから」

「僕は、経験をすることができた」

「感謝とか、そういうことじゃなくって」

「ただ、伝えたいだけで」
「だって、伝わらないでしょ?」

「だから、こうして、繰り返すんだ」

「愛してる」

「愛してる」

「君も、そうだったんだよね」

「だから、繰り返していたんでしょ?」

「知ってる、知ってるよ」

「怖いから、繰り返していたんでしょ?」

「でも、もう君は、目を腫らしていない」

「うん、抜けたから」

「知ってる、知ってるよ」

「僕は、もう、大丈夫なんだよ」

「怖くないし、安心したっていい」

「道化なんか、もういないんだから」

「大丈夫、大丈夫なんだよ」

「ほら、こっちを見て」

「目をつむって」

「うん」

 

「…」

 

「ありがとう」

「もう、怖くないし、安心したっていい」
「道化なんか、もういないんだから」

「だから、繰り返していいんだよ」

 

「愛してる。」

 

「愛してる!」

 

「愛してる。」

 

「愛してる」

 

「愛してる。」

彼女は、本当に、嬉しそうだった。その顔を見たら、僕もまた、嬉しくなった。

おいで、おいでと声をかけ、ゆっくり肩に手をかける。どれぐらいの時間が過ぎただろう。もう、元号ぐらいは変ってるんじゃないか。

老夫婦は、いなかったんだろう。滲むような世界で、ずーっとこうしていたい。ずーっと、ずーっと。それが叶わないことは知っていても、こうしていたい。ずーっと、ずーっと。ほら。僕の手は、あったかいでしょう?こんなにも、あったかくなったでしょう?

「アア!」

突然、彼女は僕の手をはねのける。

なぜ?なぜ?

問い続けても、分からなかったけれど、様子を見て、気づいてしまった。熱そうにしている。とても、熱そうに。

そうだったのか、と思い、途端に、黒目が開いた気がした。彼女の眼が腫れている。恐ろしいばかりに、腫れている。
こんなこと、望んではいなかった。彼女は、あまりに冷たくなりすぎてしまった。理由はわかってる。

僕のせいだ…全部僕のせいだ。僕のせいだ。僕のせいだ。僕のせいだ。僕のせいだ。僕のせいだ。僕のせいだ。僕のせいだ。僕のせいだ。僕のせいだ、、

信じられない奇声。
耳をふさいだけれどそれは間に合わなくて、僕の耳は聞こえなくなった。

思わず倒れこんで、僕は下から助けを請うように、上目遣いで道化を見上げる。泣いている。彼女は泣いている。大きく眼を見開き、真っ赤に眼を腫らし、泣いている、どこまでも泣いて、泣いて、泣いて、泣き崩れるほど、泣いている。
僕は、心がしめつけられるような気がした。

彼女をこんなにしてしまったのは、全て、僕のせいなのだ。

何もかも、僕のせいなのだ。

僕のせいだ、僕のせいだが、また、頭に渦巻きだしてしまったものだから、頭をぶつけることにした。
地面に、何度もなんども、ぶつけることにした。ごめん、ごめん、ごめんなさい、ごめんなさいと、何度も、なんども、ぶつけることにした。

再び見上げれば、彼女はまだ、泣いていた。でも、いくぶんか、優しそうな涙だった。まだ眼は腫れているけれど、事実を、さとったような眼をしていた。

僕の虚ろな眼とは違う。優しそうに、涙を流しながら、首をかしげている。

そうして、一歩、一歩、近づいてきた。何だ、許してくれるのか、と彼女を見たけれど、特に、そういう感情は、流れてこない。

別に、何とも思っていないのだ。

彼女が泣いていたのは、熱いからでもなく、冷たくなったからでもなく、僕が、あたたかくなってしまったことに、泣いていた。

僕が、冷たいことに、彼女は、僕の感じるあたたかさを、感じとっていた。ただ、それだけのことで、立場が逆になったとしても、彼女のほうも、時間が経てばわかってくれるはずだ。
そうして、彼女の倒錯の整理を、少し待つことにした。

その間も、ゆっくり、近づいてくるけれど、恐怖なんか感じない。

愛することを、僕は知ってしまったのだ。

殺してほしいと訴える彼女だけれど、それは愛情だったんだろう。
歪んでいる神経細胞。それでも、あまりの優しさに、僕は彼女を受け入れたし、彼女は僕を受け入れたんだ。

今では、それで良かったと思えるんだから、それで、いいんだろうさ。

時間の経った彼女は、美しかった。冷たい、あまりに冷たい微笑。

ここまで美しいものかと、見とれ、頭を撫ででみたら、ネコのようにくっついてくる。

ぬくもりなんかないよ。ぬくもりと感じている、それは依存だ。

そう、だから、それでいいんだ。あたたかい。本当に、あたたかい。

彼女は、また声をあげた。
「あなたを愛してる」

「ゆるしてあげる」

 

そう、そうなんだよね。

 

僕は、彼女のことを、

一度だって、愛したことがないし、
それを、表現したこともない。
突然、彼女はやってきて、

ナイフを持って、叫んだ。

 

「殺して!」…と。

 

ある時は、優しく声をかけ、

ある時は、引きつった笑いを浮かべ、それでも、どこか、魅力的で。
倒錯している。

彼女は、倒錯している。

少なくとも、僕にはそう見えたし、

それは、とても心に響いた。

 

彼女はとても立体的で、

抽象的な絵画のようで。
入り込める場所と、

入り込めない場所。

そんなところに入り浸る、

彼女といることは、

快感のようなものだった。

「刺して!」

と、いまだ、うるさいものだから、

どうしたの、と聞いてみれば、

 

「愛してるの。」

 

と、優しく微笑む。

まだ、目の腫れは引いてないし、

それをどこで作ってきたのか、

僕にはよく、わからない。

 

けれども、彼女は幸せそうだ。

 

ニタッと笑ったかと思えば、

突如として、形相が変わったり、

そんな光景を見ていると、

不思議と、満たされる気がする。

 

そうか、と僕はうなずく。

ナイフを少し、にぎって、

血を見せて、彼女を安心させる。

 

あたたかいものが、流れていく。

 

そうだよ、これが僕たちなんだよ、と…

語りかけてみれば、微笑んでくれて、

 

「あったかいね!」

 

と、高い声で教えてくれた。

そう、僕たちは、あたたかいのだ。

 

うん。

 

そんなことも忘れて、

生きているんだろうか。

 

僕は…

 

嫌悪がうずまき、景色を変える。
凍傷のような世界。

つめたい、

つめたい、

つめたい。

倒錯したアイデンティティ。

歪んで笑うニューロン。

どこまでも、分裂してゆく。
わからない、わからない、わからない。

どうして、ここにいるんだ?

 

「それはね」

「アタシ、愛してるから」

 

ふうん、そういうものか。

なまぬるい温もりに、

浸り続ける、彼女と僕。

 

いじわるそうに、笑うから、
いじわるそうに、嗤ってやった。

幸せ…だったんだろう。

 

だから、
僕は彼女のことを、

精一杯受け入れることにした。

 

理由?

 

だって、幸せなんだもの。

嬉しいんだもの。

こうして、話すことができて、

こうして、触れ合うことができて、

これ以上のことって、ないだろう。
本当に、本当に、嬉しいことだから、

僕は、彼女のことを、受け入れることにする。

 

六、幸福

雨が降る。いつまでも雨はフル。消えない音。変らない音。こうまでして状況を保存してくれるのだから、僕は、ありがとうと、言うことすら出来ない。

あたたかい関係は、いつまでも続く。一生つづけていく。

だから、時も、血の繋がりも、倒錯を続けて、しまいには壊れていき、今日のような、雨の日を迎えるのだ。いつまでも、水の音しかしない。雨。じとじとと降り続く、雨がフル。

「今日は、とても気持ちのいい一日だ」

上を向いている彼女に、僕はつぶやく。
そうだね、と言うかのように、彼女はゆっくり、眼をシタに向ける。あたたかい。あたたかいから、今日はこうしていよう。

倒錯した日常。

倒錯した世界。

倒錯したアイデンティティ。

倒錯した彼女。
あたたかい、本当にあたたかいから、こうしていることができるし、雨の日だから、幸せなんだなと思う。

彼女は言った。愛してる、と。僕も、今は言えるだろう。愛してる、と。

ただ、悲しいことに、その言葉は、今は届かない。つめたくなってしまったから。

僕のせい?いいや、どうでもいいよ、そんなこと。知ったこっちゃ無いさ、そんなこと。彼女は、彼女で、僕は、僕なのだから。恐れることなどないのだから、僕はここで、こうしているのだ。シタを向いた彼女の前に、ひざまずくような姿勢で、上を見上げているのだ。倒錯した関係性。これでいいんだと思う。これが、僕の望んでいたであろうことだから。
愛を知る。幸せを知る。その形が、結局のところ、これだったんだろう。見下されるわけではなく、卑下するわけではなく、中立でありながら、自然となされる関係、いや、ただの風景と言って、良いのかもしれない。

雨の降る音、オト?ばかだなぁ、音なんて、聞こえないんだから。

静寂の中で、わずかな水が、ドアの隙間から、流れてくるんだ。だから知っているんだよ。雨が降っている。

世界なんて、それぐらいの認識でいいだろう?だって、ここには、彼女がいるんだもの。

ほら、泣き腫らした眼で、こっちを見続けているよ。

私はこれでいいと知っているから、彼女はずーっと、そのままで立っている。立ち尽くしている。幸せが、何であるかを、きっと知っているんじゃないかな。

こちらを見て、首をかしげている。美しい。本当に、美しい。

真っ赤な、濃い生命。

真っ赤な、濃い血は、僕にうつってしまったんだろうか。本当に、彼女は冷たくなってしまったんだろうか。

そんなことを認めたくはないけれど、彼女はこうして、僕を見続けたままなのだ。これで、良かったのだろうか。終わったことだけれど、考え続けてしまう僕は、いくぶん、優しくなってしまったのかもしれない。
これでいい、これでいいんだよと、老夫婦の声が、聞こえた気がした。

 

七、絶情

「愛してるんでしょ!?だったら、早く刺して。」

彼女は、眼を腫らして、そう言った。

僕は、虚ろな目で、首をかしげた。

「わかったよ。」
優しそうに声をかければ、彼女は、ニタッと笑い、

本当に、満足そうで、嬉しそうな表情を見せた。

 

すると、今度は彼女のほうが、

虚ろな眼で、首をかしげたように見える。

 

はじめての、コミュニケーション。

 

幸せは、構築される!

 

そうして、

僕は、

このやわらかい、

下腹部に、

ナイフを、

ゆっくりと、

入れることにしたのです。

 

オワリ

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