【の】自分以外の『何か』を演じる辛さ

LR/sounds.Artででででででです。

なんか部屋の整備以外のことがなかなか進んでいきません。

こないだ1曲作ったんですがせいぜいそれぐらいで、他のことはあまり前に進まず。

別に焦らなくてもいいんですけど何だか気持ち的には焦ってしまって、それで「なぜ進まないんだろう」って紙に書き出して考えていました。

出てきたのは

自分以外の『何か』を演じる辛さ

で、たぶん根本的なブロックがそこにあるような気がしています。

まず『自分』の定義を最初に書いておくと、それは本当に素の自分です。

家に一人でいて、ご飯食べて、ギター弾いたり歌ったりして、グダグダして、冷凍ラズベリー食べたりしている自分。あるいは信頼している人と話している自分。

それに対して、自分以外の『何か』は

働いている自分
お金を稼ぐ自分
社会で誰かと話している自分
別のものとして音楽する自分
周りからの見られ方を気にする自分
違う何者かになろうとしている自分

など、素とは違う自分たちです。

これはわかりやすい例で言うと、例えば『ミュージシャン』を志したとします。

そのためにはミュージシャンらしい毎日の過ごし方とか、振る舞いとかが必要ですが、そういうのが演じているように感じて「なんか辛い」。

そこに当てはまるのが『資産1000億円の超お金持ち』でも『占い師』でも『誠実で礼儀正しい人』でも、なにか『自分以外の何かの役割』を当てはめられるようで、無意識が窮屈に感じているようなんです。(なので目に見えて管理される会社員とか本当に辛い)

だから、それを避ける心理(ブロック)が生まれて、いろいろと前に進みづらいんじゃないかなあと思います。

これは

「けっこう根深い問題かもなあ」

と感じていて、それは社会と関わるほとんどの場面で大なり小なり演じることが必要になってくるからです。

例えば働くにしてもそうだし、社会人として人と関わったり、結婚しているなら義両親と会うこと、親になること、何か夢やなりたい姿を追うこと、夢の叶った後だって、なんらかの演じる部分が入ります。

(場面によっては演じるというか、素の自分のチューニングと言った方が良いかもしれませんが)

すると常に人生に『生きづらさ』が同居してしまって、いつまでたっても楽になれない。楽になりたいなら、素の自分のまま生きられるすごく細い針ほどの小ささしかない道を探さなきゃいけない。

そんな道、ほんとうにあるの?となるんです。

もちろんこれを「演じるかは感じ方次第だよ」とか「全部素の自分だよ」とか「素の自分なんてないよ」とか、視点の問題に置き換えることも出来るけれど、僕はそうはしたくないんですよね。

それは利口だしある意味仏教的(空)かもしれないけれど、たとえ「そうしたくない」が執着であっても、やっぱり針ほどの細さの道を探していたいなと思う。

世界中の誰もが素の自分でも生きられる社会

が、幸せな社会なんじゃないかなーって思ったりするんです。

何か演じなくても、『押し付けられた』特定の役割を演じなくても、のんびりしてても特に不安なく生きられる社会。

そういう社会がベースにあって、その上で自分の役割を見つけたい人は、飛び込んでいけばいいんじゃないかなーと思うんですよね。

だから出来る限り、そういう生き方をつくっていきたいです。

LR/sounds.Artでした、おやすみなさい。

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