LR/sounds.Artでででです。
ここ数日の日記
を書こうと思うんですが、日課で作ってる詩とか絵とかあとYoutubeのループギターですが、ここ数日はお休みしたり飛び飛びにしたり、作ってるけどツイッターにはアップしなかったりしています。
【の】全部捨てたいと思う時
【い】どうすれば人生はしんどくなくなるのか
という記事で最近はめちゃくちゃしんどいのが続いています、2〜3週間ぐらいずっとみたいなことを書いていますが、
本をゆっくり読める程度には回復
してきました。
本って辛い時に元気をくれたり癒やしをもらえるけれど、本当に落ちてる時って読むのが難しいと思うんです。
活字を追うのが難しいというのもあるけれど、それより『人の考えを自分に入れる』ってのを拒絶しがちで、
「うるさいあっち行けよ、お前の考え入れてる余裕なんて無いんだよ」
ってのを無言で心が表現しちゃうような感じです。
それが多少ですが本を読もうというか、本に支えてもらおうと思うぐらいには回復してきたので、良い兆候なのかなあと思わぬでもないです。
ただ本音を言うと、
あと1ヶ月ぐらいはこの調子で休んでいたい
というのがあって、まだ休みたりないなあと思っています。
最初にも紹介した【い】どうすれば人生はしんどくなくなるのかという記事の最後の方で『罪の意識を感じない』ことが大事だと書いたけれど、きっと今回復傾向にあるのもそれをしばらく続けたからだと思います。
・創作をアップしなくても『気にしない』
・一日中寝てごろごろしてても『気にしない』
・人との約束を断っても『気にしない』
・買い物をし過ぎてしまっても『気にしない』
〜しなければならない、から離れて、悪いなあ申し訳ないなあという気持ちも起こさずに、何にも気にせず罪の意識を感じない。
そんな時間を長く持てば持つほど、特に自分を責める傾向にある人は心が楽に自由になっていくのだと思います。
なんというか、人間には
しなければならないが多すぎ
て、いつもがんじがらめになっているのかもしれません。
仕事とかやりたくないことへの義務感とかネガティブなものだけじゃなくて、夢とか目標とかポジティブなものもそうで、
「ああ、今日も出来なかったな」
「こんな自分ダメだな」
「もっと頑張らなきゃな」
って無意識的にも思ってしまって、そうやって消耗していきます。『したいやりたい』がしなければならないに変わっていきます。
でもそんな義務感のラインが一定レベルを超えると、過度な緊張をもたらすのだと思います。
それは『したいやりたい』とか『常識的観念』の皮を被っているので一見必要な努力に見えるけれど、そう見ているのは自分自身であって、苦しみながら本当にやらなければならないかと言われたらそんなことはないと思います。
これはあくまで例えだけど、
「毎日お風呂に入らなければならない」
とかも、やって当たり前みたいになっているけれど、本来は『しなければならない』ではありません。
確かにお風呂に入らずに満員電車に乗ってる人とかいたら辛いけれど、2日に1回ぐらいだったらまあ納得できるレベルかもしれないし。
意外と毎日お風呂習慣って1970年代ぐらいかららしくって、それはその時代に家風呂が普及したからなんだそうです。
(ちゃんと調べてないですが、きっとシャンプーのマーケティングで「お風呂は毎日入るものだ」っていう常識も浸透していったのだと思います)
そう考えると、当時の人たちと現代の人たちのお風呂常識は大きく変わっていて、じゃあこの頭の中にある常識は何なんだって話になるし。
その常識に基づいて『しなければならない』を決めて、それを基準に「自分はダメだ」とか「こうあらねばならない」とか考えて出来なかったらダメージ受けるとか、すごくバカらしいことだよなあなんて思ったりします。
きっと、
常識は思い込み
なんです。
脳って同じ世界を見ているようでみんな違う世界を見ているんですけど、常識もまた認識のゲシュタルトみたいなところがあって、それが固着しちゃうと頭が硬いとか、村社会っぽくなっていきます。
ずっと同じ場所にある岩は雨風にさらされて削られていくように、世界には風化の作用があって、一つのところに凝り固まるとより激しくダメージを受けていきます。
ダメージを受けないためには
なるべく身は軽く
しておく。
それも物質的にも精神的にもです。いらない思い込みはなるべく捨てておく。
アリが高いところから落ちても死なないように、いろんな背負ってるものを手放してしまえば、逆に本当に一緒に歩むべきものが見つかったりするのだろうなあなんて思ったりします。
とりあえず、すごいしんどさの中でも創作自体はちょこっとですが出来ているので、今はなるべく休むことに専念してこれからに繋げていきたいと思います。
LR/sounds.Artででした、おやすみなさい。