LR/sounds.Artでででででです。
【の】転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転機転
という記事で書いたように、最近いろんなことで脳も体も忙しいんですけど、また少しずつ少しずつですが創作しようという気持ちになっています。
というか昨日ボロボロなメンタルでベッドに横になってぼーっと壁を見てボヤボヤ想いを巡らせていたんですけど、やっぱり
逃れられない人生観
があるなあって思ったんです。
それが何かと言うと、
音楽してない自分に価値はない
です。
人生っていろんな楽しみがあるじゃないですか。
・お酒や食べ物
・恋人や家族と日々を過ごす
・友達と遊びに行く
・エンタメを楽しむ
・リラックス的なことをする
・本を読んだり何かを学ぶ
とかとかとか。もちろん何かを犠牲にしてでも成功を目指すとか、超高級なもの買うとか、あとギャンブルとかに依存しちゃうのだって本人が良ければ人生の楽しみの一つです。
そいうのってそれはそれで楽しいし、何に一番の価値を置くかって人それぞれです。
でもどうもそのあたり
固執している自分
がいるっぽくて、
・音楽している自分→正しいこと、良いことをやっている
・音楽していない自分→悪いこと、無駄なことをやっている
という判断をすべての行動にやってしまって、音楽以外のことをする度に罪の意識を感じているようなんです。
例えば『誰かと予定を合わせて遊びに行く』という行動は、もちろん行ったら行ったで楽しいんだけど、どこかで人生を浪費しているような気がして、楽しみながら罪の意識を感じているような気がします。
同じく『お金を稼ぐ』行為なんかもそれは人生の本質と何も繋がっていないものだから、仮に『稼がなければならない』のならまるで奴隷か虐待されているような気持ちで罰せられているような感覚があります。
そういったことがほぼ全ての行動について回っていて、
・何かの予定を入れることは罪
・予定を入れさせられることは罰
というのが重なって、自我と自己肯定感が死んでいってるようです。
僕が思うにですが、きっとこれは
心理的な習慣+自ら得た大好きなもの
がくっついてそうなっている気がします。
『心理的な習慣』
というのは教育によって得られた心の動き方のクセのことで、僕の場合は非常にヒステリックな母に管理して育てられたために
・正しいこと(当時は勉強)だけをしなさい
・それ以外のことは全て無駄なので止めなさい
・止めなければ罰します(当時の罰=怒り、叫び)
上記の白黒思考的な心理習慣が身についちゃっています。
もちろんこれは大人となった今ではだいぶやわらいでいるけれど、それは苦いケーキの上に何層もクリームを塗っただけであって、何かメンタル的に落ちた時なんかはクリームが剥がれて毒のスポンジケーキが出てきてしまいます。
『自ら得た大好きなもの』
というのは『救ってくれたもの』や『信仰心』とも言いかえることが出来て、つまるところ誰かから与えられたものではなく自分が本心から「これは好きだ」と言える存在のことです。
僕の場合は音楽があったから今生きているので、音楽がそれにあたります。
ただ、何をするにしても基本的な心理習慣で接しますから、音楽に対してもそうなってしまう。
その結果、
・音楽している自分→正しいこと、良いことをやっている
・音楽していない自分→悪いこと、無駄なことをやっている
というのが無意識レベルで分けられてしまって、音楽していない時は常に罪の意識が無意識を苦しめて、メンタル不調の原因になってるんじゃないかなあと思うんです。
(本質的には、過去のトラウマが自分を苦しめているのではなくて、過去のトラウマ的体験によって作られた『現在の心理習慣』が苦しみを生み出す構造なんでしょう。この世は現在です。)
そんなに音楽してるわけじゃない
ってところで、きっと毎日のようにバンドやりまくってたり音楽仕事にして活躍してる人のほうがずっと音楽と向き合ってる時間って長いです。
だからこれは行動ではなくて心理的な固執という点が変だけど興味深くて、もちろん時間的な濃度とかやってない時に成長してる部分もあるので一概には言えないんですけど、とにかく強固な固執があるんだろうなあという気がします。
じゃあどう対処していけばいいのかと考えてみても、たぶんですけど
一生付き合って行くしかない
とも思うんです。
というのもそういった心理習慣が一種のアイデンティティを作ってしまっているのは事実であって、もし仮に音楽に固執しなくなったら、幸せだけどどこか空虚な人生が待っているようにも思います。
それは本当は「受け入れなさい」「認めなさい」的な態度で癒やされる部分なのかもしれないですが、癒やされた後の自分を本当に自分が望むのか、と考えた時に、どうも違うように感じます。
だからきっと『音楽してない自分に価値はない』という人生観は、薄汚れたガラクタを大事そうに抱えて街を徘徊して捨てられそうになったら罵声を浴びせてそれを守ろうとするゴミ屋敷おじさんのような態度で、一生向き合っていかなきゃいけないんだろうなあという気がします。
ただ不思議だなあと思うのは、ほんとにごく稀にですが
いつもは無駄だと思ってる行動も、この人となら無駄じゃない
と思う人がいることです。
僕は今まで一人しか出会ったことはないですが、そういう人ってたぶん抽象的世界で見ているものが一致しているので、どんな行動をしていても何か自分の目的や使命にとって意味があって、プラスを生み出してくれるんだろうなあと思います。
だからいつか何かしらの形で、今の自分の人生観を抱えたまま他の行動も許せる時もあるのかもしれません。
とりあえず、一生付き合っていくしかなさそうというのは分かったので、そういう自分を理解しながら諸々のことに取り組んでいけたらなあと思います。
LR/sounds.Artでした、おやすみなさい。