LR/sounds.Artででででででででででででででででででででででででででででででででででででです。
なんかまた間が空いた気がするのですが気にしません。時間は存在しないのです。
それはさておき、相変わらずですが
最近もとてもよくだらだら
しています。
だらーだらーと「無意味だなあ」って思うことをやって過ごしています。
メンタル的には上がったり下がったりを繰り返しつつ、8月あたりと比べたらだいぶ楽になってきたかなーって感じはしてるんですけど、
・バンドできないし
・ソロでもライブとかしてないし
・家で積極的になんかやってるわけでもないし
ほんとに食い扶持稼いでダラダラしてってのをずーっと繰り返して3ヶ月ぐらいは経ってしまった気がします。
そんなに続けてるとやっぱり
今まで見えてなかったところ
が見えてきます。
例えば「ああ、何かを追い求めてない生活ってこんな感じなのかあ」と思って。
もちろんそれは悪いことじゃなくてむしろ平穏で良いなって思うんですけど、とりあえず稼いでとりあえず食べてとりあえず暮らして、なんとなく将来のことを考えて趣味を楽しんで日々を過ごしている、みたいな。
今までずっと目標達成型というか「こう在りたい」「あっちに行きたい」みたいなのを繰り返して生きてきたので、なんかそういう芯の部分が抜け落ちた生活って平穏だなあってのを感じてます。
そんな平穏さに浸っていると、
何のために生きてるんだろう
ってのをふと考えた時に全然答えが見つからないというか、なんか絶望しちゃうんですね。
ゲームは楽しいし、精神引きずりながらもとりあえず食い扶持稼いではいるし、家でご飯食べたり弁当買ったりして読書をごく稀にして外でほとんど遊ばずに毎日をこもって過ごしていて。
この3ヶ月間、週1のミーティングとかそういうの以外ではほぼ人と話してなくて、誰とも話さない日なんてザラにあるんですけど、とにかく『人と話すことが珍しい』みたいな状況なんです。
そうしてると本当に目的とか意味とかが溶けていって、あと自我の輪郭みたいなのも溶けていきます。
そんな溶けた自分に対して、
「きみの生きる意味は?」
って聞いてみる。
すると、
「まるで生きてる意味がない」
と返ってくる。
これは絶望とか悲しみとかネガティブに落ちて言っているのではなくて、もっと淡々と、
「平穏だけど生きる意味がないなあ」
って感じなんです。
じゃあ逆に、
「きみの死なない理由は?」
と聞いてみると、これも
「まるで死なない理由がない」
んですよね。
これも絶望とか悲しみとかネガティブに落ちて言っているのではなくて、もっと淡々と、
「平穏だけど死なない理由がないなあ」
って感じなんです。
なんていうか多分なんですけど
『音楽が全て』って偏屈に拘り続けてきた自分
からすると、
・パターンA:平穏でお金と自由があるけど音楽が一切出来ない生活
・パターンB:ストレスだらけでお金も自由もないけど毎日音楽が出来てる生活
だと、たぶんBの方がずっと幸せとか生きる意味を感じられると思うんです。
むしろスマホもネットもなくて、家に一切のモノもなくて、音楽しかやることがない場所に閉じ込めて欲しい。
今思えば『ヒステリックに勉強をやらされてた小学生時代』のパターンが染み付いていて、それが音楽に変わっただけなんだろうなあとも思うんですけど。
もうそこは変えられないというか、変えるつもりもないなあって感じなんですね。
管理を過度に嫌う一方で、管理されなきゃ生産が難しいんだと思います。悲しいですね。
この3ヶ月、ずっとダラダラしてきて
パターンAに近い感じで生活をしてきて本当に思ったんですけど、まじで生きてる意味もないし死なない理由もない。
だからといって「今、死にますか?」と問いかけると、自殺に対する欲望もなくて、
「別に積極的に死にたくもないけど、もし仮に今ここでコロッと逝っちゃったら、まあそれはそれだよねえ」
ぐらいの感じなんです。
ちょっとの間だったけれど集中的にライブしてた期間も何年かあったし、曲はいっぱい作ってきたし。
もっと生きてたらまだまだ新しい曲と出会えるとは思うんですけど、それが多くの人に積極的に認められる可能性は少ないだろうし、
「やりたいことやってきたし、もう疲れちゃったし、いっかあ」
みたいな感じではあります。
だからきっと今のままじゃダメで、もしこのままだときっと死ぬ時に死んだ魚の眼をしているんだろうなあって思います。
(どうせなら生きた魚の眼で死にたい)
なので、そういった印象を持った
この3ヶ月を教訓とするなら、
やっぱり
・パターンB:ストレスだらけでお金も自由もないけど毎日音楽が出来てる生活
ここに拘らなきゃダメなんじゃないかなって思うんです。
そういう生き方が一番幸せを感じられるというか、不幸も感じるけど音楽はいっぱいできるぜって『すがるような生きる意味』は感じられると思います。
じゃあどうするのって考えたら具体的には難しさもあるんですけど、なんていうか物も選択肢もまだまだすごく多くて
淀んでるなあ
って感じがしてるんですよね。流れが停滞してる。
下水道とか、沼地とか、湖の奥底みたいなものを感じていて、とりあえずその辺を吐き出さないと前に進めないなあって印象があります。
ほんとうに、今手にしてる色んなものを捨てて
偏執狂
に一度ならないと、たぶんダメなんじゃないかなって思います。
性格も良くないしなんかすごく神経質で頑固だけど、一つの場所を掘り続けて自分なりの宝物を追いかけてるみたいな。
じゃないとこのまま平穏なまま、パターンAで死んでっちゃうのかもしれないなあと感じてます。
それで実は今日、
すごいことに気づいた
んですけど、なんと
父が亡くなった年齢になるまで残り15年
なんですよね。
たった15年ですよ。15年。
父が今の僕の年齢の頃にはすでに8歳(小学2年生)の僕がいたわけで、まあ3歳から別居してたのでほとんど子育てやってないんですけど、そんな大きな子供がいるって凄いことだなあとも思うんです。
一緒に遊園地に行った時とかきっと
「息子可愛いなあ」
「でも遊ぶより仕事したいなあ」
「あれもこれもやらなきゃなあ」
とか絶対思ってたと思うんです。
忙しいし家で休みたいけど、家族サービス的に仕方なくやってるって面も絶対あったと思う。
でもそんな中でもまあたまには遊びに行ったりご飯も行って、それを今の僕の年齢でやっていたのは何かすごいなあって思います。
かたや自分を見ていると、
・ダラダラしている
・特に何も成し遂げていない感じがする
・拘りすら放り投げた生活を最近している
・もちろん子供もいない(結婚も興味ない)
みたいな感じで、
「えっ、私の人生残り15年!?」
ですよ。やばくないですか。
あとたった15年で死んじゃうとなったら、けっこうマズイんじゃないかなと思うんです。
しかも年齢って重ねれば重ねるほどやれることが減ってくる……というよりも、
『年甲斐もなく』って言う人がいっぱい出てくる
ので、受け入れられづらくなってくるというのが実際のところです。
まあそういった中でもごく少数に受け入れられて、それで色んなことが成り立っているなら別にいいのかなと思うんですけど、とにかく受け皿みたいなのが減っていくんですね。
体もだるくなるだろうし、見た目も当然若さがなくなってくる。
そういう面でもやれること減っていって、そんな逆風の中で『残り15年』ですよ。やばくないですか。
『残り15年で何を残せるか』
って考えると、余分なことしてる時間本当にないなあって思います。仕事なんかしてる暇ないです。
もっと言うと、
現実的なことを考えてる時間もあまりない
って感じがします。
例えば「お金どうしよう」とか「音楽しながらどうやって食べていこう」とか「どういう人生計画しよう」とか、そういうこと考えて作っていってもどうせトライアンドエラーなので、
「時間がなければ後先考えずとりあえずやれ」
みたいな感じになってくると思うんです。
むしろ”現実的”って観念自体が幻想で「とりあえずやれ」の方が正解なのかもしれない。
長くなったのでそろそろ終わろうと思うけど、まあもちろん15年で死ぬとは限らないけど、
残り15年プラン
で生きるのも良さそうだなと思いました。
これすごく意味を感じられそうなので、また掘り下げてみたいと思います。
LR/sounds.Artででした、おやすみなさい。